キャプテン・シネマの奮闘記

映画についてを独断と偏見で語る超自己満足ブログです

第325回:『考察する若者たち』という新書を読んで考えてみた件

今回は映画と少しは関係のある話を語っていきます。

最近よく目にする、耳にする「考察」というワード。物語展開を予測しながらアニメや映画といった映像作品を観る行為を示し、とりわけTVドラマにおいては”考察系ドラマ”というジャンルが確立しつつあるぐらい鑑賞スタイルの定番となりつつあります。現在放送中のTVドラマ『リブート』も誰が犯人かといった「考察合戦」がSNS上で賑わっているようなのです。ただし私、この考察ブームというものに対して違和感を覚えていました。”そんな観かたをして楽しいのだろうか?”と。こうしたモヤモヤを心に宿していたところ書店で発見したのが文芸評論家 三宅香帆による新書『考察する若者たち』。おぉなんとクリティカルなタイトル!これは私が抱える心のわだかまりを解してくれるのではないか?と手に取ってみたのでした。

というわけで今回はこの『考察する若者たち』を読んで考えた事を適当に書き連ねてみようと思います。ネタバレは多分大丈夫ですが、一応注意です。

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↑話題として取り上げる衆院選の日、東京も久しぶりに雪が積もりましたね

それは「考察」と呼べるのか?

まずこの昨今流行りの「考察」についてなぜ違和感を覚えているのかというと、物語の先行きばかりを気にしているとシーンごとの演出や演技の良し悪しを見落とし兼ねないと思っているからでした。基本的に記憶に残っている作品ってストーリーの結末がどうだったかよりも”あのシーンにテンションアガった”とか”あの俳優の表情が良かった”といった細かい部分に対する感情に付随している事が多いと思うんですよね。なので、物語展開を予想して正解かハズレたかで一喜一憂するのは正直どうでも良いのではないかと。

また「考察」と呼ばれているその鑑賞スタイル自体が果たして「考察」と呼べるのかどうかも疑問でした。私の中で「考察」とは、作り手はこの作品を通して何を伝えたいのか?背景にあるテーマは何か?といった事を自身が今まで触れてきた他の作品と照らし合わせつつ独自に読み解いていく行為であり、昨今の「考察」におけるストーリーの先読みは予測ゲームの範疇だと思っていたのです。しかし本書によると私の中で思っていた「考察」は「批評」に該当するよう。違いに関しては、

考察には「正解」がある=報われるゴールがある

批評には「正解」がない=報われるゴールがない

なるほど、確かに「正解」を求めているのであれば結末という答えに結び付くヒントを発見するための観察が必要であって、シーンごとに対する感情や独自の見解は必要ありません。何より作品を観たという行為が報われるか報われないかが重要視されているというのです。更にこの「報われ消費」は推し活やChatGPTといった現代の流行にも関わっているのではないかという話が展開されていきます。

報われるかどうかですか…私自身、一度も気にした事がなかった観点です。自分に合わない、つまらないと思った映画やドラマを観た際”これだったら他の観れば良かったじゃん、損した~”みたいな気持ちになる事はごくたまにありますが、それで鑑賞行動が報われなかったと思った事ないもんなぁ。とにかく現代人の多くは行動したぶんの「報酬」がポイントで、自分の意見や感想を持つ事以上に「報酬」が得られそうなものを選択する傾向なんですね。

「報われ消費」は選挙でも?

そして私が本書を読んでいる間には衆議院選挙が行われました。高市政権率いる自民党が歴代2位の得票数となる歴史的圧勝という結果に驚かされましたが、本書で述べられている事と準えて考えると腑に落ちる気がしました。

自分の投票した候補者が落選するなんて事があったら自身の投票という行動が報われない。だから掲げている政策内容よりも当選しそうな側の人を選んで報われようとする。こうした投票心理が働く人も居たのではないでしょうか。”サナ活”という言葉が登場したように、少なからず政治に「推し」の概念が持ち込まれている風潮なので、アイドルの総選挙感覚だった人も居たのかもしれません。

また、AIのアルゴリズムが提供してくる情報によって”界隈化”しているがために、自身の政治的な意見や価値観はぼんやりとしかなく、"どうやら高市政権は支持率が高いらしい"という何となくの流れに便乗する事が「最適解」だと考えた人も多かったのではと推測ができます。まぁ台湾有事の発言やおこめ券、憲法改正の問題等々に真面目に向き合うよりマジョリティっぽい方に染まってしまうのが楽ですから。

今やこの「報われるか報われないか」はエンタメ消費のスタイルのみならず社会そのものに影響を与えているのかもしれません。非常に危うい状況だと思いますね。

まとめ

では「報われ消費」が社会に広がり、それにマッチしたAIのアルゴリズムによって意見や個性がカテゴライズ化される中、どうすれば「自分らしさ」を維持出来るのか?

それはマイノリティになる事を恐れないに尽きるんだと思います。周りと意見や感想が異なっても良いんですよ。例え同じ意見持つ人が周囲に居なくても、世の中のどっかには多分居るだろうと思える心の余裕こそが鍵なのかもしれません。よっしゃ!俺も「最適化」に抗ってやる!いや、それはもう充分かも、寧ろ社会にチューニングしていく努力しないとダメかもなぁ…

という事でこの辺でお開きです。ありがとうございました。